このガイド灯 88番の右側、後ろ、北と東へ向かうのが東海道です。

 杉浦重剛の生誕の地

この右側に立ち並ぶ比較的新しい家々は、その昔、油三と云って油商の坂口邸の後です。幕末の膳所藩城下明細地図に記載されているほどの老舗でした。もめごとも笑って上手く裁いた元膳所町長坂口三左エ門です。そして、この枡形と思われる小広場は、城下の所々にある擬装施設で、他藩大名の通過の時道に撒いた砂の置き場。これより兵田川を渡り西南方面に「杉浦重剛」生誕の家、「このガイド灯の横に石碑が有ります。」そして、別保の祇園牛頭天王社などへ行き当たります。

杉浦重剛 安政二年三月三日膳所別保で生まれた。父は膳所藩の儒者杉浦重文(蕉亭)、母は八重と云います。森伝良の娘です。次男だったので幼名は譲次郎と云い後重剛、梅窓は雅号で晩年天台道士とも云う。六歳で藩校遵義堂に入り、十一歳で高橋作也に、十二歳で黒田行次郎について勉学、この年別保から藩校付近に転宅している。明治三年十月十六歳で膳所藩貢進生に選ばれて上京、大学南校に入り、二十二歳で英国に留学生として派遣され化学を学んだ。滞英四年帰国後は民間にあって国民教育に努め称好塾を始め、日本中学をお越し雑誌「日本人」次いで「日本及び日本人」を発行した。明治四十五年四十八歳で東亜同文書院院長に就任、大正三年東宮(今上天皇)御学問所御用掛を拝命して七年間倫理学を御進講申し上げ、更に大正七年良子女王殿下(皇后陛下)の御学問所にも奉仕して六年間修身科を担任した。大正十三年二月十三日東京淀橋の自邸に於いて、幼少よりの親友海軍軍医中将鈴木重道の手当てを受けながら逝去された。

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