東海道筋です。ガイド灯87番

膳所焼の一つ梅林焼

この左右には幕末、豆腐屋、梅林焼、刀鍛冶を営む店があったようです。後ろには、ほんの数年以前までお茶屋さんがありました。そこは多分明治の頃の建物であったようです。趣のある佇まいだったことを覚えています。さて、梅林焼は膳所焼と云われているものの一つであります。そして、膳所焼とは小堀遠州が指導して窯を築いた所謂遠州七窯の一つに数えられ、茶人間で頗るもてはやされた陶器であります。陶器研究の大家蜷川(しき)(たね)氏によると、大江、勢多、国分、雀ヶ丘(雲雀が丘)そして梅林(宮町)の諸窯で焼いたものの総称を膳所焼と云う。其の内膳所の古窯と云うのは、大江、勢多、国分の三つであると説いています。これらの土地が当時膳所藩の領地であったことと、膳所城主(菅沼・石川)が窯を創設して茶器を焼いたので、これらを総称して膳所焼と云ったものと思われます。享保(1716.6.22~1736.4.28)年間に地の人小田原屋伊兵衛が梅林焼と云う支那の交趾(こうし)(ベトナムの地域の古名)風の陶器を、城西梅林山(茶臼山の東南麓)の土を用いて花生、香合、鉢皿などを膳所宮町で作ったが一代で終わった。後、文政(1818.4.22~1830.12.10)年間に梅林金三郎が交趾焼を模して造り梅林の印を用いた。