東海道筋です。ガイド灯79番

藩の練兵場

このガイド灯の右の筋を西に向かいますと、椿原町を通り越しますと、(さくらの)馬場(ばんば)(ちょう)に当たります。椿原町は勤王のため切腹相果てた百石の士、高橋幸祐の屋敷に大きな椿があり、その実が四隣りに散布して一帯が椿原となってから地名としたようです。高橋は椿里と号し、父の幸方と共に歌人であった。

膳所藩時代の桜の馬場は享和文化の交に藩政革新(御為1件の後の)文武振興の施設として藩校遵義堂と殆ど同時に創設したもので、その規模の壮大なることは、近畿に比類がなかったと膳所藩懐郷座談に載っています。それは当時拡張整備したものであって田川人三郎翁談によると、この馬場は戸田藩主時代からあったものか、本多になってから出来たものか不明であるが、桜の樹齢から見ると300年(戸田一西の時代?)は確かに経っていたと云う。桜の馬場と云うくらいだからこの馬場の周囲は一面の桜で明治廃藩の時、名前までは書かないが梅村某が伐採してしまった。文化年間、膳所藩では文武振興のため、文に遵義堂、武に桜の馬場を設けた。桜並木の中に矢場があり、流鏑馬の稽古などもした。花咲くころは見事な眺めであったようです。中神天弓(郷土歴史家)が描いた桜の馬場の絵が幾つか残っています。

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