東海道筋です。ガイド灯78番

中神天弓=中神利人(としと)18841969 「近江の説話覚書」

・瓦ヶ浜・中庄の湖辺で中世、瓦匠が住んでいた。城下街道の屋根は諸国大名の参勤通行の時、町の美観、体裁上瓦葺とし道に面した片面は藩主持ち、背面は町人持ちとした。西念寺などまだ藁葺本堂であった頃、街道側は瓦葺であった。この浜辺は本多藩主の隠居所で、瓦ヶ浜御殿があった。とくに御殿ガ浜と呼んだ。

・膳所の南総門から石山鳥居川まで八町におよぶ松街道。近江八景「粟津の晴嵐」で知られる。昔は一軒も家がなく昼でも追い剥ぎが出た。後、殿様に頼んで街道の中央に三軒の茶店が置かれた。

・明治、大正時代、生駒秀一という盆梅家がいた。生駒翁はなかなかの凝り性でよい花種のあるのを聞くと遠方からでもそれを集め、毎春、見事な花を咲かせた。庵居を梅仙窟と称し、その名声は広く聞こえた。山元春挙画伯と姻戚にあたられ、画伯も絵筆を執る暇を見つけて、よく鑑賞に来られたものだ。生駒翁の歿後は、折角の盆梅も長浜と追分の八新に移されたと聞く。

・文化年間、膳所藩では文武振興のため、文に遵義堂、武に桜の馬場を設けた。桜並木の中に矢場があり、流鏑馬の稽古などもした。花咲くころは見事な眺めであった。維新廃城と同時に銘木をことごとく切り倒した。勤王のため切腹相果てた百石の士、高橋幸祐の屋敷に大きな椿があり、その実が四隣りに散布して一帯が椿原となってから地名とした。高橋は椿里と号し、父の幸方と共に歌人であった。