東海道筋です。ガイド灯75番

 瓦ケ浜御殿 本多俊次の創設

 このガイド灯の右側の電気屋さんは西暦1953年創業のお店です。この膳所の街で商いをさせて頂いているたった一軒のお店です。そして、左側古い佇まいのお宅は元膳所藩に仕える飛脚だったそうです。そして、このガイド灯の右側、即ち浜に続くこの道は新道と云って、数件のお宅が立ち退いて出来た道です。この道を真っ直ぐ浜へ向かって南東へ行きますと、本多神社の参道が右に見えて来ます。本多神社の境内は、寛文(16611673初年に八代目城主本多俊次の創設した浜御殿の庭です。浜御殿は膳所城の勢多口総門の護衛を兼ね城主の隠居所並びに非公式の会見所として創建されたもので、南は総門の壕に接し、東は湖水に面し、北は湖水を隔てて、三の丸の(たい)(かく)(城郭の出入り口を見下ろす位置にある)に相対して、三面が水に臨み白壁をめぐらした。庭は築山を築き、大小二個の古墳を取り入れ、池を掘り湖の水を入れてありました。幕府の制度は父子兄弟と雖も、一旦他家に行った者は城廓内に入るを許さなかった。これは群雄割據(ぐんゆうかっきょ)(多くの実力者が互いに対抗し合う事)時代の余風である。それでこのように城廓外に別荘を造り、城下を通る親戚のもが此処に立ち寄り会見するのに便利にしました。浜御殿は、事がなければ一般庶民と共に楽しみ、一旦ことある時は防塁となすことが出来ました。白壁には銃眼を開け、築山には弓砲を据えることも出来、南の総門の後援に備えました。寛文(1661,41673,9四年九月に俊次が先ずここに退栖しました。その後九代康将(やすまさ)、十代康慶(やすよし)、十三代康桓(やすたけ)がここに隠居し、十七代(やす)(さだ)は京都の儒者皆川棋園をここに招いて教えを受け、遵義堂を建設しました。その後棋園は瓦ヶ浜別荘十二勝の詩を作ってその風景を賞している。このような浜御殿も廃藩後一時茶畑や桑畑と化しましたが、明治十六年五月に旧家家臣並びに封内の有志の手により本多神社が創建されました。また明治三年正月最後の城主本多康穣が茶臼山に創建した膳所藩十一烈士の招魂祠も、ここに移祀され十一烈士のほかに脱藩して王事に(たお)れた三烈士をも合祀して官祭招魂社となり、毎年十月二十一日の例大祭には勅使が差遣(派遣)され、祭祀料を下賜されました。爾来八十余年、この招魂社は戦時中には膳所護国神社と改称され、戦後はさらに丹保宮と改められました。本多神社境内には中期の円形古墳が二つあり、一つは稲荷山古墳であり他にその東にあります。稲荷山古墳の洞窟には鎌倉時代の子授け地蔵があり、山上には貞享年間に藩主が田上羽栗から移祀した広鶴稲荷が祀ってあります。昭和の中期まで御殿浜水泳場だった付近は粟津貝塚跡でありました。

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