東海道筋です。ガイド灯73番

 膳所の寺院 三十四ケ寺

城下には各宗各派の寺院が三十四ケ寺もあった。藩内の寺院は大目付役の管理下にあったが、築城以前からあった古い寺院もあれば、四代藩主本多俊次が此処に移封された時に西尾から付いて来た寺院もある。更に藩主が父母の追福のためその法号をとって寺院の山号、

院号或いは寺号を変えた寺院もある。築城以前からの寺院は、景沢寺のように創建当時から現在地のものもあるが、法伝寺、清徳院、光源寺、国分寺のように元は山の手にあって、城下町が出来てから引移ってきた寺院が多い。三十四ケ寺の中で縁心寺、円福院、大円院、

法性寺、安昌寺、唯伝寺、清徳院、泉水寺、最勝院不動寺を十ケ寺と称し一般寺院と藩の待遇を異にしていた。俊次公について西尾から来た引越し寺院や清徳院、大円院、法性寺のように藩主本多家との所縁を有する寺院。また藩士の檀家寺である。十ケ寺の住職は藩主から辞令を貰い、藩主の江戸参勤の発着の時には送迎に参列し、また慶弔等には必ず登城する例となっている。なお、十ケ寺には藩から寺侍が一名づつ付与されていた。廃藩の時に大円寺、最勝院、不動寺、兼平寺など十一ケ寺が廃寺となったが、その後、記恩堂

のある山元春挙画伯の蘆花浅水荘が記恩寺となって、現在二十四ケ寺である。ちなみに、このガイド灯の左後ろに建つのが光源寺で左斜め前のマンションの所に円福院五百羅漢堂が建っていました。そしてそのマンションの向かいの路地を入っていくと、稲荷神社、天台宗慶雲山最勝院不空寺が建っていました。最勝院は藩主の祈願所で参勤交代の出発日等を諮問される寺の一つです。今は住宅地になっていますが、マンションとその手前の数軒は稲荷浜を埋め立てた所です。

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