東海道筋です。ガイド灯20番

膳所騒動「御為筋一件」(御為筋 利益になる客筋)

延享年間(1747)から享和年間(1801)まで、凡そ五十五年間もこの騒動は続きました。

十三代膳所藩主康恒を初め十四代康政、十五代康伴、十六代康匡若くして早世しました。

康恒、康伴は名君で有りましたが、藩主が短命であると藩政が不安定になり、重臣が専横する、財政が乱れる、士道が地に堕ちる。藩主血縁の家老本多(実は名和氏)内匠通輝父子と同じく血縁の番頭鈴木幸エ門時敬父子の二代に亘る秕政(ひせい)がもとであります。御為筋と云われた所以であります。本多俊次の七男仍時が鈴木氏の養子となって居り幸右エ門時敬はその子孫です。また名和氏も三河時代からの旧家で本多氏の始祖と深井縁故がありました。その名和家に本多から養子を出して、本多の氏まで与えました。従って後代の藩主しかも分家や他家から養子のはんしゅの命に従わず、部下に威張るのも尤もであります。任免加増を勝手に行い権謀術策を弄して財政を紊乱(びんらん)しました。かくて歴代藩主が改正につぐ改正を行ったが威令行われず、数十年の久しい間、情実が続きその効果なく、人心も既に倦んで志ある者も誰一人これを救おうとしませんでした。この御為筋一件についてはある程度詳しく懐郷座談に載っているが複雑多岐で、その全貌を簡単明瞭に記述することは困難です。なお、膳所藩の土一揆も御為筋一件中の出来事で、膳所藩騒動の中の一つであります。