東海道筋です。ガイド灯18番

維新の激動

表層の政治的動きをみる限り、湖国の近世は比較的平穏な時代であったように見えます。

しかしそのことが、膳所(城)事件「ガイド灯52番」に視られるように、社会の安定を物語っていた、と考えたら間違いであります。近世における近江の百姓一揆発生件数をみると、なんと全国でも十位にランクされるのです。所領関係の複雑な事、そして明治の地租改正の際に、内務省の出張官員が注目したほど、全般的に近江の村々の年貢率が過酷だったことなどが、百姓一揆が多発した原因として上げられましょう。例えば、激動する幕末開国の前夜、天保十三年(1842)十月、甲賀、野洲、栗太三郡の農民一万二千余人が蜂起した、天保大一揆は、幕府検地測量の際、彦根、尾張仙台など有力藩の領地には手を付けず、天領(幕府直轄地)や小藩の領地だけに厳密な検地を実施したため、農民の不安、不満が爆発したのが、その原因であったと思われます。世も人も動き始めていました。嘉永六年(1853)ペリー来航による開国要求は、そうした状況に拍車をかけました。開国か否か、将軍継嗣問題、政局は混迷しました。そんな中彦根藩主井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼が大老に就任。その後は周知の事となり結末は桜田門外の変での死であります。その後、幕府の方針は一転して、公武合体を唱え和宮と徳川家茂との政略結婚となりました。和宮降嫁の盛大な行列が草津宿を通って中山道を江戸へ向かったのは、文久元年(1861)十月二十日でありました。総計二千三百六十六人と云う大人数。各宿場を一日で通過することが出来なかったのです。この四日間に草津宿が用意した人馬は、のべ人足数一万八白六十三人、馬四百九十三頭でありました。この数を見ても、助郷(すけごう)(宿場付近の農民に課した夫役)の村々の負担がなみたいていのことではなく直接草津宿が負担した和宮下向のための金額は、六百八両余と多額でした。それも響いてその年の瀬に暮の諸賄にも差支え「手段尽き果てる」と述べ、膳所藩に当座の入用金を下付してほしいと嘆願するほどでありました。その内情はこのようなもので、維新の激動の中で草津宿のみではなく膳所藩もまた大きく変貌しようとしていました。直弼死後、直弼の腹心、長野主膳、宇津木六之丞両名を斬首に処し、開国方針に反対していた岡本半介を家老とし、尊皇攘夷派が藩政の実権を握りました。しかし、尊皇攘夷派の天下は短かったのです。

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文久三年八月十七日、天誅組の変 翌十八日、八月十八日の政変(薩摩対長州)が起こり、公武合体派により京都の尊皇攘夷派が一掃されたのです。その後、近江の諸藩もみずからの進方向を見失いがちとなりました。膳所藩尊皇攘夷派にもその手が差し伸べられたのです。  滋賀県の歴史より