東海道筋です。ガイド灯1番

壬申の乱後、大友皇子の第二皇子与多王は出家して聖信大法師と称す。

北西方向、すなわち大津方面に行くと、大津口(西)惣門の小さな碑が有ります。そこから南方面が膳所城下町となります。西、南総門を越えますと城下町ならではの曲がりくねった道が続きます。その惣門を越えますと、幕末では船町と云い、法伝寺、八大龍王((いわ)()神社)等そして、(こう)(にん)寺が鎮座しています。そして。膳所城の外堀―相模(新堀)川の岸に四角いはずの枡形防塁が南北に長い長方形で設けていました。これは防衛火器の展開に相当面積を要するとの見積もりからであったと思われます。その防塁を越えますと、網町と云い、このガイド灯の前が響忍寺になります。法伝寺壬申の乱後、大友皇子の第二皇子与多王は出家して聖信大法師と称し、円明寺の第五世を継がれました。爾来(じらい)(その時以来)住職は大友皇子の系統が相継ぎ連綿として今既に六十二代に及び大友氏であり一族の氏寺であります。与多王は慶雲(704.5.10~708.1.11)三年四月没し、遺命により茶臼山山頂の大友皇子の陵側に葬られました。度々兵火に焼かれたが、天智天皇と大友皇子の尊牌、大友皇子の(しん)(はつ)、与多王の木像、その他若干の古文書などが保存されています。なお、昭和四十八年に茶臼山の御塚及び当寺に於いて、大友皇子をはじめ壬申の乱の戦没者の千三百年法要が行われました。石坐(いわい)神社は延長(923.閏4.11~931.4.26)五年撰進の延喜式(えんぎしき)神名帳(じんみょうちょう)にある式内社であるからその創立は古く、御祭神は海津(わだつ)()神を御霊(ごりょう)殿()山に斎祀す、と社伝にあるが、延喜式には彦坐(ひこいます)(のおう)を祀るとある。天智天皇の御代、御霊山上の石上に小祠を創建した。これが石坐の起源である。次いで持統天皇(690~697)(645~702)の時これを石神町に移祀し、八代竜王と称し、壬申の乱に敗死された大友皇子(弘文天皇)、大友皇子の母、天智天皇の三神体を相殿として密かに祀った。現位置に移祀したのは文永(鎌倉中期1264.2~1275.4)三年で、応仁の乱や関ヶ原の戦いで荒らされたが、膳所城主菅沼定芳、本多康命などが当社で雨乞祭をして、石の玉垣、石の鳥居などを寄進している。明治元年高木神社と改称し、明治十五年石坐神社の旧号に復した。八代竜王は軒を貸して母屋を取られた格好で、本殿のご神体(天智、弘文の両帝、伊賀(うね)()宅子(やかこ)彦坐(ひこいます)(おう)の四木像)国宝である。響忍寺は元和五年(1619)釈宗慶の開基。宗慶は粟津に土着の粟津氏の一族。寺号の響忍は大無量寿経中の「一者音響忍」によるそうです。当寺と大泉寺とは火焔にまつわる奇しき縁に結ばれていて、転々とし城内高禄屋敷入りした家老の村松八郎右衛門の屋敷に移って来ました。故に表門は武家の長屋門が昔のままの姿で残っています。南に建つ敬願寺(きょうがんじ)もまた長屋門です。

 

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