東海道筋です。ガイド灯65番

 永順寺が建っていた。

昭和七年記載の文献によると、「伊藤呉服店は永順寺の跡なり。現在の空地およびその西隣

の傘屋の一部も寺跡なりき。」とある。「近江與地志略」によると、もう少し広い敷地を有する宗英寺があって、三河の国西尾から転報になった藩主に随伴して来た安昌寺に替わった。その安昌寺がまた転封になった藩主に伴われ伊勢の国亀山へ引っ越してから、正保四年(1647)ポルトガル船が初めて長崎に来航したころ、大津丸屋町の永順寺の兼帯(掛け持ち)の浄土真宗本願寺派永順寺がその後へ来ました。その時の境内は元のままであったと思われるが、少なくとも昭和七年には狭くなっていました。現在その永順寺は丸屋町に存在しています。