東海道筋です。ガイド灯56番

膳所茶

膳所茶の創始者は五代目念仏重兵衛(太田氏)である。庚申堂の近くに住まいが有ったと聞いています。重兵衛は父祖を継いで膳所藩士だったが、早くから産業に意を用い士籍を子供に譲り、専ら田園作業を行っていた。元来膳所の地は湖と山に挟まった狭い土地で、耕地も砂礫多く灌漑の便が少なく、農民は厄介田と称していた。彼はこれを甚だ遺憾に思って宇治に行き、自ら製茶法を自習して帰り、山の手柿が坂の荒れ地を開拓して良茶を製出したので、村民でこれを習う人が多かった。その後重兵衛は藩の茶司となり、銘茶「柿の本」と「無名」の二種を作ったところ、品質精良なので藩中の茶人に愛用された。安政元年米艦が渡来の節、膳所藩の儒者関研は幕府の命により、幕府の応接役林大学頭に従って米艦へ行ったところ、米国の水師提督ペルリーが、日本には西洋のコーヒーの代用になる飲料は無いかと尋ねた。そこで研は重兵衛から貰った茶「無名」を提供したところ、ペルリーは大いにその香味を誉めて、日米通商の親交を結んだら貴国の産物で我が国に欲しいのは、生糸とこの茶であるといった。研は江戸の膳所藩邸に帰ってその旨を上申したので、藩主は早速重兵衛に命じて、城南園山の原野十三町歩を開墾して茶園を作らせた。安政二年五月のことである。そこで茶株を植えて海外輸出用の茶の増産計画が立案され、膳所の茶は開港以来わが国重要輸出品となり、信楽焼の細長い壺に入れ、逢坂山を牛車で越え神戸港から米国へ輸出された。これより重兵衛の茶司の名声は高くなり、舗号を竜井堂と名付け「松風」「仙掌」「おものが浜」などの銘茶を出しました。この頃公卿の岩倉具視は岩倉村に幽居中であったが、婦人槇子の里が膳所清水町の膳所藩士野口家(現在の名和長嘉邸)であるので、膳所に微行して重兵衛の茶園を視察し、竜井堂の代わりに念仏園の名を与え、具視の師匠である正三位伏原宣諭に扁額を書いて貰い重兵衛に与えました。そのうち彼は抜擢されて膳所村庄屋加談人となり、専ら村政の改良に尽力し、勤勉を勤め怠惰を戒めました。たまたま百姓三吉が田用水の取り方について重兵衛にその不法を咎められたのを怨んで、ある夜重兵衛の家を襲って殺害しました。明治二年八月九日の事である。時の重兵衛は五十二才。清徳院の境内墓地に葬られた。妻の菊は夫の危急を救おうとして負傷した。後三吉は死刑に処せられ、菊は賞せられた。

扁額 門戸・室内などに掛ける細長い額」重兵衛の死後園山の茶園は、旧領栗太郡辻村の田中忠兵衛に経営させ、膳所村の西村幸太郎が支配人として茶の販売事業を継承し、明治十四年に園山に紅茶、緑茶の製造所を設け直輸出を試みたが、十六年に茶価が低落して

大きな赤字を出したので、忠兵衛は手を引き、幸太郎は三十五年廃業するまで頑張っていた。かくて膳所茶の名は消え静岡茶が有名になってきた。