東海道筋です。ガイド灯55番

弓矢とる神もいまさば武士(もののふ)()のかいなき死をや憐みたまへ

この歌は膳所藩烈士保田(まさ)(つね)(中老500石)の辞世の歌です。正経は信六郎と称し、のち信解と改めました。この名が幕末膳所城下図の城内のこのガイド灯の後ろ方に記されています。この物語は膳所事件と云います。徳川家茂将軍の暗殺事件であります。正経は膳所藩の家老、柴田勝正の第六子で、天保九年六月二十九日膳所に生まれ、六歳で同藩の保田正令の嗣子(しし)となった。正経は風采俊爽で、論議、流れるに以て、才弁でした。幼少のころから文学を好み、藩儒の高橋正功および森祐信に学んだが、強記であり、博く経史に通じ、兼ねて和歌をも能くしました。また、槍術を同藩の吉田五郎左衛門と片岡弾治に習って奥義を究め、越後流軍学を森祐信に学び、さらに撃剣・射騎の術にも秀でていました。養父の正令が故あって早く官を辞したので正経は若くして家を嗣ぎ、寄合席から側用人、番頭を経て中老職に進み五百石を受けた。門閥の家に生まれ、その上文武の才があるので、藩中の志士は彼に多くの望みを嘱し、推して一藩の頭としていました。この暗殺の流言は同藩の上坂三郎右衛門が発したもののようです。これにより正経ら攘夷党の十一名を獄に下した。慶応元年閏五月十四日のことでありました。かくしてその年の十一月二十一日、正経ら百二十石以上の上士四名は安昌寺で切腹、中士以下の七名は獄中で斬に処せられ、岡山霊園に葬られた。

 

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