東海道筋です。ガイド灯52番

膳所(城)事件

ガイド灯57番で出てまいりました田河武整、保田正経、阿閉(あとじ)(のぶ)(たり)、槙島(みつ)(あき)(すけ)(のぶ)

高橋正功(まさかつ)獄中でのこより文字)高橋幸佑、関敏樹、渡辺あつむ、増田正房、深栖俊助

慶応元年閏五月将軍家茂の西下の目的は長州征伐であった。膳所藩主は景色の良い二の丸御殿に一泊して貰うつもりで改修したが、普請奉行保田正経等勤王の士が、寝殿を吊り天井とし地下に地雷を埋めてあるという噂が流されたので、京都所司代よりの命令で調査したが異状は無かった。それで藩命により大坪流の馬術の名手木村小市衛門が、藩一の名馬花巻に跨り愛知川まで走り、将軍にその旨上申したが、将軍は膳所城前を素通りし、城下の坂本屋に小休され、大津本陣泊、廿二日入京された。この間藩主不在の膳所藩では為すところ知らずただ恭順を表すのみであり、幕府の嫌疑を蒙っている限り何らかの処分を下さねば、藩の存続に拘るので藩主不在であるが五家老協議の結果、同慶応元年十月廿一日

前述の十一名を断罪することにした。   郷土歴史家、竹内将人氏による疑問点が沢山見受けられると記述しています。①事件が発生した時、十一士を処刑する時、藩主は在城していたか否か。藩主が最も信任する股肱(ここう)の憂国の士、高橋正功、森祐信等斬首にせず、処刑するとしても切腹に処したであろう。京都守護職から通達が届いた時の対応策が不手際であり、藩主が在城して居れば松平肥後守はこのような通達を膳所藩へ出し得なかっただろうと思われます。②前回膳所藩主が泊城を請願した時泊城せず、なぜに藩主参府中で不在の膳所城に将軍が宿泊せんとしたのか大いに疑問である。竹内氏の所見は、京都守護職、同所司代と幕府の老中の間で仕組まれた策略で、もともと膳所に宿泊の予定なく大津本陣で宿泊の計画であり、二十歳の若い将軍は膳所宿泊など知らなかった事と推察される。

ようは膳所藩の勤王攘夷派を壊滅するための仕掛けられた罠であったのだろう。③当時家老の秘書であり書記役で膳所城事件の経過やその顛末を最も知る平田好(当時の原田会輔)が、その著「懐郷坐談」の巻末に僅か記述しているのみである。詳しくは、竹内氏の書物を手にして頂きたいと思います。

こより文字.jpg  こより文字 高橋幸佑短冊