東海道筋です。ガイド灯48番

  初代城主 戸田左門一西

戸田氏は三河以来の松平譜代の臣で、東三河の旗頭酒井忠次(本多康俊の実父)の下で活躍してきた家柄である。祖父氏輝のとき松平清康に仕え父氏光を経て一西である。一西は

元亀二年(1571)二十九才で武田勝頼と戦い、天正十八年には四十八才で小田原の役に従軍し命により諸軍を監督しました。この年家康に従って武蔵国に移り高麗(こま)郡鯨井に五千石を拝領しました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従って信濃上田城真田昌幸を攻めた。このとき、上田城攻めにこだわる秀忠にただ一人反対した事から後に家康に賞された。秀忠の関ヶ原遅参について、家康は大いに怒り、周囲の者は皆諌めなかったのかと言ったといい、一西は自分が諌めたが受け入れられなかったと述べた。家康は今後は一西の言うことを用いられる様にしたいといい、自ら采を取り一西に授けた。一西はこれを受け感涙にむせたという。慶長6年(1601年)2月、家康の命による近江国膳所の築城を成し遂げた功績により、同地に3万石の所領を与えられ膳所藩を興した。一西は藩政安定のため、紅しじみ漁を奨励し、膳所は紅しじみの宝庫となり、一西の通称である左門に因んで「左門しじみ」と呼ばれるようになり、そのしじみ汁は京都の朝食に必ず出るまでになったという。