東海道筋です。ガイド灯45番

瀬田の唐橋からねぎぼし、水に浮かぶは膳所の城

この街路灯が建つその後ろは屋号「茶長」といいます。その「茶長」のいわれは・・天正年間、千宗易(利休)らと泉州堺の納屋衆―自治体運営の中核グループの一人であった

茶屋四郎次郎がその先祖であって、御朱印船で安南貿易もしていたと云う。その北隣は松田常磐堂。その横を東西に走る道路は中大手門に通じる道です。幕末膳所城下図から見ますと、家一軒二軒分東に行きますと、大手門の番所が有り、それを抜け湖に向かって進み

左手に鐘楼が見えてまいりますと左側に門が有ります。それを入ると馬出と云う広場になっていて東側に本丸入口の橋を渡ると水の中に建つ本丸に到達します。膳所城の規模は城主本多俊次の寛文四年(築城六十二年後)に記録した築城当時の配置図によると、勢多口から大津口に至る湖畔の一筋町の湖側に構築され、本丸・出丸・二ノ丸は湖中に突出し、本丸と二ノ丸は十間の廊下橋で、二ノ丸と二ノ丸曲輪は十一間の土橋で連絡し、三ノ丸に政庁内壕内に重臣の邸宅を設けました。本丸が湖中に突き出しているので天守閣は本丸の中央に置かず、北方大湖に向けて湖岸に置かれました。上層は三間四方の四層楼で、石垣の高さは十三間、その礎石はさざ波に洗われ、白亜の城郭が湖面に映り漂い、水にうつる膳所の城と唄われて、その景観は京畿の門戸を守衛するにふさわしい威容がありました。なお北ノ丸は丸の内から地続きで、二ノ丸の北側の湖中に突き出ていました。この地は膳所崎と云います。 1間は6尺(1.818m)半間は約90cm

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