此処は別保八軒町です。ガイド灯90番
膳所は粟津供御人の町
膳所が築城以前から相当の町をなしていたことは、粟津供御人の名によっても分ります。既に粟津七ケ庄として中世に名を知られた松本・馬場・西ノ庄・木下・浜田・中ノ庄・別保のうち西ノ庄以南の五ケ村を割いて膳所城下町とし、松本・馬場の二ケ村は大津代官の支配地とし、幕府直轄としました。一般の城下町は城をめぐって軍事的構成の外に商人を呼び集めて、その城を支えるための生産都市、商業都市としてその繁栄を計るよう町割りしたものですが、膳所城は湖に臨んで湖上を制圧し、京都の咽喉もとである陸路をも扼する構えとしましたが、大津を商業都市としてその繁栄を阻害しないように配慮しました。大津と膳所は表裏一体とし両者相寄り相助けて近世封建都市を形成するように計画されました。膳所は軍事上から細長い曲がりくねった街道に沿うて、ほぼ四十間一町の地割とされました。東海道はここより西に向かい、少し広くなっている所を右折します。
供御人 平安時代から室町時代にかけて朝廷に属し、天皇の飲食物を貢納していた人々
後、通行、交易の特権や販売独占権を与えられる者も出た。
扼する 重点・要点を押さえる。