東海道筋です。ガイド灯24番  

 大砲 都の春 遵義堂

このガイド灯の西側に藩校遵義堂が有りました。文化元年(1804)九月露使レザノフが長崎港に来航した当時、藩では御為筋一件の内紛が漸く治まった時で、全藩を挙げて士気振作に邁進していたので、武備充実の命を幕府から受けると直ちにこれに応えることが出来ました。すなわち、藩主康完は都の春・青海波時津風・八重垣などの名をつけた大砲を鋳造し、遵義堂を創建して演武場を造り、また桜の馬場を拡張整備して、文武を奨励しその振興に努めていました。また特に兵制を改革して砲術を重視し、熟練者を選抜して大砲隊を組織しました。その大砲はオランダ式のホウ井ツル砲で、藩士平元肇が下曽根金三郎について鋳造したものであります。当時は百匁以上の鉛玉を発射するものを大砲と称したが、藩最大の大砲都の春の鉛玉は六貫匁あり世人を驚かした。藩主康融は、寛永六年(1853)ペリーが浦賀に来航した時、京都七口の警備に当たり、また強壮な藩士十五名と砲術士五名を江戸へ急派したが、翌安政元年(1854)九月に露艦が大阪湾に来泊した時は、上陸する虞あるからと、京都所司代の命により淀川沿いの警戒のため、大砲と共に伏見の警備につき、竹田と墨染に駐兵しました。この時、全藩を挙げて緊張した出陣で有りましたが、兵器を使うことなく、十月初旬に露艦が退去したので事無く引揚げて帰藩しました。以後、度々外国艦の来航があっても、特に警備の為に遠隔の地に出兵することはなかったが、御所守衛の任を帯随時京都東方道筋の警備に当たったことは前述の通りである。