東海道筋です。ガイド灯19番

 

草莽()(そうもう)挙兵 (草莽=くさむら 在野)膳所城解体

尊皇攘夷派の一掃により近江を代表する彦根藩も膳所藩も大政奉還から王政復古へと進展する維新のクライマックスの大事件には、なんら主体的にかかわることが出来ませんでした。公家綾小路(とし)(ざね)滋野(しげの)()(きん)寿(ひさ)を擁して、湖東三山の名刹松尾山金剛輪寺で赤報隊が結成されたのは鳥羽、伏見の戦い直後の明治元年(1868)正月十日でありました。京都を起点とし、水口藩士を中心に農商民・神官・僧などを含め三十人程がくわわり総勢二百三十人程に膨れあがっていました。同じころの一月十九日、湖東の()誓寺(ぜいじ)で公家高松(さね)(むら)を頭目に、わずか十数人の草莽による挙兵がありました。この高松隊は、彦根藩から武器や人足の提供を受け、また弘誓寺の檀信徒である旧金堂村から数百両の献金を得て、急速に隊としての実体を整えたのです。しかし、その後偽官軍、偽勅使として維新政府から解体を命じられ処分されたのです。その時、年貢半減の高札に沸き立っていた近江の民衆も、彦根藩も、維新の幻想を見ることになったのです。明治とはいうものの、村落の日常生活のレベルでは、「旧慣」のまま、というのが政府の方針でありました。しかし、「御一新(ごいっしん)」の波を武士の世界、即ち藩そのもの、城下町がまともに受けたのです。明治三年(1870)四月、膳所藩主本多康穣は廃城願いを政府に提出。理由は、膳所城は湖中に突き出た水城で毎年莫大な修理費が必要であり、しかも近代の戦には役に立たない「無用の長物」のようなもので、かつまた特別「景勝の地」といえるものではないという事でありました。当時の膳所藩の総収入は二十一万八千両余りで、ここから城の営繕費は毎年五千両を計上していましたが、実は藩の累積負債は三十万両余り、総収入を越えていました。しかも負債のほとんどは、幕末以降のものであり、特に明治元年一月から明治二年に掛けての戊辰戦争における戦費や軍事輸送にかかった費用が大きな比重を占めていました。藩は実質的に破綻していたのです。間もなく城は解体されたが、本丸から石垣まで、一千二百両で売り払われたと云います。こうして、近江八景のひとつに数えられた名勝が永久に消えました。同年暮れから膳所藩では、藩士を帰農させる帰田法を実施したが、家臣戸数七百戸余りの内、九割以上が帰農を希望していた。いまや武士そのものが消えようとしていたのです。藩政時代の諸施設が撤去され、また上層家臣が住んで居た土地は空屋敷がめだち、城下全体が一時荒涼とした風景をさらしたのです。まさしく、時代も社会も激動していたのです。